今日の書籍『菜食への疑問に答える13章 生き方が変わる、生き方を変える』
菜食✳︎の人って極端じゃない?
動物の虐待や、ペットを殺すことをすすんで行う人は多くいないはずです。その一方で牛や豚、鶏など食肉として殺すことに意義を唱える人となると一転して少数派になってしまいます。これは同じ直線上にある物事でも直視している部分と、目を背けている部分があることを示しています。
しかし、菜食人の存在を知ってしまうとこの矛盾を実践できることに気づいてしまいます。ですがそこで素直に受け入れられない人の性が発動し、自分とどちらが正当かを確かめるために質問の矢を放つ。その質問に答えるのが、本書で登場する13章の質問たちです。
「これは人が生きていくのに必要な定めなんだからしょうがないだ、生きていくとは誰かを犠牲にすることなんだ」と自分に言い聞かせたりする。ところが、ある人々の存在が、創刊単位逃げることを許してくれない。菜食人である。菜食人は、人が動物消費をせずとも立派にいきていけること、自分の良心に矛盾せず生きていけることを、その存在でもって証明する。そんな人物を前にすると、動物消費をする人々は改めて自分の中にあった後ろめたさを意識させられ、なかば自己弁護の心から、なかば相手と自分とどちらが正当かを確かめたい心から、菜食人に質問の矢を放つ。
ーp.319 訳者あとがきより
13章全てはご紹介できないので今回はぎゅっと凝縮して、私が厳選した3つをご紹介します。全編をご覧になりたい方はぜひ本書をチェックしてみてください!
植物なら食べてもいいの?
情感による違いが動物と植物の間にはある。そこを区切りとするとこの質問が見えやすくなる。例えば果物や植物を踏んだとしても、踏まれた痛みは感じない。そこに動物と植物を踏む場合の感情の違いが人間にもあるはずです。さらに植物が苦しんだり、周りの世界を考えるとする理由はなく意識のあることは可能性レベルではあるものの、それよりもまずは意識が証明されている動物消費から見直す必要があるのではないでしょうか。
お乳や卵はいいんじゃない?
乳製品や卵は動物を直接傷つけていないように見える製品ですが実は見えにくくなっているだけで、傷つけていることには変わりありません。乳牛は人間と同様雌で妊娠しないとお乳が出ません。そのため畜産の現場で雄が生まれた場合、処分されています。雌が生まれた場合、親と引き離され乳牛として同じ運命を辿るのです。鶏も雌だけが選り分けられ育てられる点から、同様に傷つけることへ加担することになるのです。
完璧な菜食人にはなれないんだから、こだわらなくてもいいんじゃないの?
実際、現代では完璧な菜食人は存在できません…。なぜなら動物性製品の副産物により世界が構築されてきたからです。例えば道路、自動車のタイヤ、医薬品、肥料に至るまで間接的に動物性製品による副産物を利用したものが溢れています。実はこれら身の回りのものに動物性製品は必要ありません。ではなぜ含まれているのかというと、そこで使わなければならないほど大量の動物性製品が排出されているからです。
この事実を理解すれば、動物食をやめて植物食に切り替えると搾取は劇的に減らせることに気付けるんです。
菜食人でない人から見ると、菜食人の存在は異様なものに移るかもしれません。でも健康、環境、動物のことを考えた時この選択を冷静に受け入れてみることが今求められています。逆に菜食人は過去の自分が非菜食だったころに思っていた心情や不安があることを今一度理解してお互いに歩み寄って建設的な意見交換ができれば、さらに生きやすく望ましい世界が広がるはずです。
✳︎書籍に則り、本記事では以下の定義を用いています。
ヴィーガンを実践する人=菜食人
ベジタリアンを実践する人=菜食主義